藍染の歴史

藍染の歴史

 紀元前4500年前のインダス文明の遺跡から、藍染の工房跡が発見されたと言いますから、それが事実とすれば、かれこれ6500年以上の歴史を持つことになります。
 現存する最古の藍染の布は、エジプトのミイラを包む「マムミー布」にありますが、これも4000年も前の物。
 ヨーロッパも藍染めが盛んで、古くはガリア戦記の紀元前54年の頁に、藍染めが出てきます。

施設写真

《ブリタンニー人はみな大青で身体を染め、青い色なので、戦闘では恐ろしいものに見える。》(岩波文庫「ガリア戦記」第5巻⦅紀元前54年⦆)

 日本には、1800年程前に中国から入ってきたのではないかと言われていますから、世界から見れば、日本の藍染は比較的新しい文化です。

 それにしても古い事ですが、何千年もの長い間、藍染が人間の生活の中で生き続けてきたのには、それなりの理由があったはずだと、紺邑は考えています。

日本の藍染めの歴史

機器写真

写真は日本最古の藍染め「縹縷(はなだのる)」。天平勝宝4年(752)の大仏開眼会で用いられた由緒ある品。出典:宮内庁ホームページ

 日本の藍染の歴史は凡そ1800年前からと、おおざっぱなことを書きましたが、魏志倭人伝に「青」が出て来ます。

《其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬》
<其の四年。倭王はまた使の大夫伊聲耆、掖邪拘等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢を上献す。掖邪狗等は率善中郎将と印綬を壱拝す。>

「其の四年」とは、正始四(243)年。
「絳青縑(コウセイケン)」の絳は赤で茜染め。青は藍染め。
「縑(ケン・かとり)」とは、固く織った平織りの絹布。

こう解釈すると、2~3世紀には、日本に藍染めがあったことになります。

 日本の文献に、藍染が初めて現れるのは古事記です。
 大国主命が大和に上がろうとするとき、妻の須勢理比売命(すせりびめのみこと)に歌を歌われた。その中に・・・

 鴗鳥(そにどり)の青き御衣(みけし)を
 ま具(つぶさ)に 取り装い

 この「青き御衣(みけし)」が藍染だろうと言われています。

 続いて大国主命は・・・

 山県に 蒔きし あたたで春(つ)き
 染木が汁に 染衣(しめころも)を
 まつぶさに 取り装(よそ)ひ
  
 と歌っています。

 「山県」とは「やまあがた」の略で、「あがた」は山地の畑のこと。「あたたで」とは異蓼ということで、大陸から持ち込まれた蓼藍のこと。


 奈良時代頃までは、土に穴を掘って生の葉を入れ、醗酵させて染めていたようですが、室町時代になって、「すくも」を作り染める現在の藍染の形が出来上がったと言われています。


 江戸時代にはいると綿の文化が栄えるようになり、それに合わせるように藍染も盛んになったように云われますが、藍染は麻にも絹にも良く染まるものですから、それ以前から盛んに染められていたでしょう。室町時代には、紺屋に灰(これを「紺灰」といいます)を売っていた「灰屋」が、大きな商いをしていました。

 江戸時代、幕府の財政が逼迫し始めると、八代将軍吉宗の「享保の改革」以来、しばしば倹約令が出て、庶民は綿の着物に茶と鼠と藍しか着られなくなった。各々の色が百も二百もあるのは、お上に言われたからって色気を忘れちゃいなかった庶民の知恵の発露なのでしょう。絣や結城紬の起源も、この辺りに起因しているようです。
 そこで庶民は藍染めを選んだ。ですから日本人のほとんどが藍染めを着たり使うようになり、日本は青の国になったというわけです。

 明治になり、日本の人口も増え、藍染は燃え尽きる前の蝋燭の炎のように栄えました。
 1890年(明治23年)、折しも日本の藍染めの最盛期最後の頃に来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「東洋の第一日目」という最初の随筆に、日本の青のことが書かれています。
 それは、人力車で横浜の外人居留地から町へ一歩踏み込んだときのお話しです。
 
 《まるでなにもかも、小さな妖精の国のようだ。人も物もみんな小さく、風変わりで神秘的である。青い屋根の小さな家屋、青いのれんのかかった小さな店舗、その前で青い着物姿の小柄な売り子が微笑んでいる。》

 《見渡す限り幟が翻り、濃紺ののれんがゆれてる。》

 《着物の多数を占める農紺色は、のれんにも同じように幅を利かせている。もちろん、明るい青、白、赤といった他の色もちらほら見かけるが、緑や黄色のものはない。》

 《従業員の背中に(その法被を着た人が、どこの店や組に属しているかを示すために)紺地に白く、かなり遠くからでも簡単に読み取れるほど大きく文字が書かれていると、安物のぱっとしない衣装も、いっきに人の手が加わった輝きが添えられるのだ。》

 それらを「名画のような町並みの美しさ」とラフカディオ・ハーンは書いています。(新編「日本の面影」 ラフカディオ・ハーン 池田雅之訳 角川ソフィア文庫)


 明治30年代になって、ドイツから石炭由来の人造藍が輸入されるようになると、日本中の紺屋がこれに飛びつき、日本の藍はあっという間に衰退してしまいました。それは今でも続き、いわゆる「蒅(すくも)」は、無いに等しいと言わざるを得ないのが現状です。

 日本の藍の原料は、蓼科の藍草の葉を用います。
 これを「蓼藍(たであい)」と呼びます。
 主な産地は徳島県でしたが、三重県、広島県、埼玉県、栃木県なども産地で、最盛期は全国で五万町歩の藍畑があり、徳島はその三割の一万五千町歩を占めていました。我が佐野市も、明治の初めまでは藍と藍染の産地でした。