藍染めとは

藍染め
 藍の成分(インディゴ)を元に染めるのが、藍染めです(詳しくは、「正藍染と藍染め」の項で)。
 古来人類は、「藍」を持つ植物の葉を利用して染めてきました。
 葉の中にある「藍」は、水に溶けません。ですから、草木染めのように煮出しても藍染めは出来ません。これが、いわゆる「草木染」と「藍染め」の決定的な違いです。
 水に溶かさなければ染め物にはなりませんから、藍を可溶性にして染め液を作ります。それを「建てる」といいます。

 日本では古来より、二つの段階を経て藍を水に溶けるようにしていました。
 先ずは、藍草の葉を100日ほど掛けて醗酵させ、「すくも」という原料を作ります。「すくも」を作る職人を「藍師」と呼び、すくもを杵で突いて固め切ったものを「藍玉」と言います。

 次に、「すくも(藍玉)」を使い、灰の灰汁で藍を建てます。その職人と家を「紺屋」と呼びます。

 藍染は全国で染められておりましたから、産地はありません。日本では、どんな小さな村でも紺屋があったくらいに当たり前の染めでした。
伝統的な藍染め
 藍は、藍草の葉に「青藍」として存在し、水に溶けません。灰汁で醗酵させると「白藍」として水に溶けだし、液の中に粉体として存在するようになります。つまり顔料のようなものです。そこに糸や布を入れると藍が付着し、外に出すと酸素と結合(酸化)して、もとの青藍に戻って青くなるのです。だから藍染は、「染める」とも言うけれど、「付ける」とも言います。
 酸化して青くなった藍は、元の水に溶けない藍ですから付着しなくなる。ですから本来藍染めは、色移りはしませんし、定着すれば色落ちもしません。
 糸や布に付着した藍の上に藍を重ねると、つまり何度も何度も染めると、青味が濃くなります。付着ですから、糸や布の中に藍の色は入って行きません。つまり、コーティングしているようなもので、擦れに強く、繊維を丈夫にするのです。その分洗濯に強く、丈夫で長持ちするために、野良着やジーンズなどの労働着に適しているのです。

写真は綿の紐を藍染めものの断面。藍が表面に付着していて中に染み込んでいないのがお分かりだと思います。
色素を染み込ませるから「染色」ですが、藍染めは正確には「染色」ではありません。いわゆる染色家が藍染めを間違えるのは、このためだと私は考えています。

 綿・麻・絹・毛と、天然繊維全てに染めることが出来ます。しかし、石油系の合成繊維は、一切染まりません。
 糸や繊維に付着した「藍」が、様々に働き人間の役に立ってきました。
 紫外線を通さず、(毒)虫除けと言われ、抗菌作用や遠赤外線効果と云ったことです。
 だから7000年近く、人間は藍を染め、使ってきたのでしょう。
藍染めの歴史
 紀元前4500年前のインダス文明の遺跡から、藍染の工房跡が発見されたと言いますから、それが事実とすれば、かれこれ6500年以上の歴史を持つことになります。
 現存する最古の藍染の布は、エジプトのミイラを包む「マムミー布」にありますが、これも4000年も前の物。
 ヨーロッパも藍染めが盛んで、古くはガリア戦記の紀元前54年の頁に、藍染めが出てきます。《ブリタンニー人はみな大青で身体を染め、青い色なので、戦闘では恐ろしいものに見える。》岩波文庫「ガリア戦記」第5巻(紀元前54年)

 日本には、1800年程前に中国から入ってきたのではないかと言われていますから、世界から見れば、日本の藍染は比較的新しい文化です。
 それにしても古い事ですが、何千年もの長い間、藍染が人間の生活の中で生き続けてきたのにはそれなりの理由があったはずだと、紺邑は考えています。
日本の藍染め
 凡そ1800年前とおおざっぱなことを書きましたが、魏志倭人伝に「青」が出て来ます。

《其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬》
<其の四年。倭王はまた使の大夫伊聲耆、掖邪拘等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢を上献す。掖邪狗等は率善中郎将と印綬を壱拝す。>

「其の四年」とは、正始四(243)年。
「絳青縑(コウセイケン)」の絳は赤で茜染め。青は藍染め。
「縑(ケン・かとり)」とは、固く織った平織りの絹布。

こう解釈すると、2~3世紀には、日本に藍染めがあったことになります。

 日本の文献に、藍染が初めて現れるのは古事記です。
 大国主命が大和に上がろうとするとき、妻の須勢理比売命(すせりびめのみこと)に歌を歌われた。その中に・・・
 
 山県に 蒔きし あたたで春(つ)き
 染木が汁に 染衣(しめころも)を
 まつぶさに 取り装(よそ)ひ
  
 とあるのがそれ。
 「山県」とは「やまあがた」の略で、「あがた」は山地の畑のこと。「あたたで」とは異蓼ということで、大陸から持ち込まれた蓼藍のこと。


 奈良時代頃までは、土に穴を掘って生の葉を入れ、醗酵させて染めていたようですが、室町時代になって、「すくも」を作り染める現在の藍染の形が出来上がったと言われています。

写真は日本最古の藍染め「縹縷(はなだのる)」。天平勝宝4年(752)の大仏開眼会で用いられた由緒ある品。
出典:宮内庁ホームページ http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Treasure?id=0000014723

 江戸時代にはいると綿の文化が栄えるようになり、それに合わせるように藍染も盛んになったように云われますが、藍染は麻にも絹にも良く染まるものですから、それ以前から盛んに染められていたと私は考えています。紺屋に灰(これを「紺灰」といいます)を売っていた「灰屋」も、室町時代から大きな商いをしていたようですから。

 江戸時代、幕府の財政が逼迫し始めると、八代将軍吉宗の「享保の改革」以来、しばしば倹約令が出て、庶民は綿の着物に茶と鼠と藍しか着られなくなった。各々の色が百も二百もあるのは、お上に言われたからって色気を忘れちゃいなかった庶民の知恵の発露なのでしょう。絣や結城紬の起源も、この辺りに起因しているようです。
 そこで庶民は藍染めを選んだ。ですから日本人のほとんどが藍染めを着たり使うようになり、日本は青の国になったというわけです。

 明治になり、藍染は燃え尽きる前の蝋燭の炎のように栄えました。
 1890年(明治23年)、折しも日本の藍染めの最盛期最後の頃に来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「東洋の第一日目」という最初の随筆に、日本の青のことが書かれています。
 それは、人力車で横浜の外人居留地から町へ一歩踏み込んだときのお話しです。
 
 <まるでなにもかも、小さな妖精の国のようだ。人も物もみんな小さく、風変わりで神秘的である。青い屋根の小さな家屋、青いのれんのかかった小さな店舗、その前で青い着物姿の小柄な売り子が微笑んでいる。>
 <見渡す限り幟が翻り、濃紺ののれんがゆれてる。>
 <着物の多数を占める農紺色は、のれんにも同じように幅を利かせている。もちろん、明るい青、白、赤といった他の色もちらほら見かけるが、緑や黄色のものはない。>
 <従業員の背中に(その法被を着た人が、どこの店や組に属しているかを示すために)紺地に白く、かなり遠くからでも簡単に読み取れるほど大きく文字が書かれていると、安物のぱっとしない衣装も、いっきに人の手が加わった輝きが添えられるのだ。>


 それらを「名画のような町並みの美しさ」とラフカディオ・ハーンは書くわけです。(新編「日本の面影」 ラフカディオ・ハーン 池田雅之訳 角川ソフィア文庫)

 ところが藍の含有量の多いインド藍や、明治30年代になって、ドイツから人造藍が輸入されるようになると、日本中の紺屋がこれに飛びつき、日本の藍はあっという間に衰退してしまいました。それは今でも続き、いわゆる「すくも」は、無いに等しいと言わざるを得ないのが現状です。

 日本の藍の原料は、蓼科の藍草の葉を用います。
 これを「蓼藍(たであい)」と呼びます。
 主な産地は徳島県でしたが、三重県、広島県、埼玉県、栃木県なども産地で、最盛期は全国で五万町歩の藍畑があり、徳島はその三割の一万五千町歩を占めていました。我が佐野市も、明治の初めまでは藍と藍染の産地でした。